聖木曜日。教会の目的は、礼拝。

a chalice covered with white cloth and brass cap
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コロナ禍の中で、家族と仲間と共に過ごす時間や、権利や、人間の命さえを含めて、たくさんの失ったものがあります。教会で聖週を行うために集まることは、去年は不可能でした。しかし、コロナ前できたことを段々、又できるようになってきました。先ほどまで禁止されたこと、例えば聖歌を歌うことは、やっとできるようになって、その失ったことの価値を新たに悟るようになっています。取られたものを取り戻して、又喜べるようになります。

大斎節もその通りです。礼拝の中で、色々なことがだんだん取られています。例えば、伝統によって、大斎節の三週間前から、儀式の中で、「アレルヤ」が復活日まで唱えないようになります。大栄光の歌は今日まで歌われていません。そして、復活日の二週間前から、朝の祈りの最初の詩篇から、Gloria Patriという「栄光は、父と子と聖霊」などが撤去されています。イギリスの教会で、その時から、十字架と像もベールに隠れられることよくあります。結局、聖木曜日の聖餐式の後から、十字架と全ての飾りは祭壇から撤去されていて、教会は裸になります。それから復活日まで、伝統的には、Gloria Patriは全ての詩篇の末から省かれています。大斎節の間、ずっと聖金曜日まで、教会の礼拝は段々簡素なようになります。しかし、そして、急に、イースター・イーブの暗闇の中で、光が輝きます。大栄光の賛美を歌ったり、鐘を鳴らしたり、「アレルヤ」を大声で出したり、尊い祭服を着たり、お線香の香りを匂ったりして、私たちは天国のこの世に貫くことをその瞬間に経験できるようになります。というのは、取られたものを取り戻して、又喜べるようになります。

でも、礼拝は飾りではなく、礼拝は教会の目的です。

主イエスは、亡くなる前の夜、弟子たちに最後の命令を命じられました。だから、英語で、聖木曜日が「Maundy Thursday」と呼ばれています。「Maundy」は、ラテン語の「Mandatum」に由来して、「命令」を意味します。では、今晩は、私たちはイエスの最後の命令を記念するために集まっています。その命令は、二つです。

一つ目は、「私があなたたちを愛したように、お互いを愛しなさい」ということ。これを表すように、周知の通り、主イエスは弟子たちの足を洗いました。

でも、二つ目の命令は、「私を記念するため、このように行いなさい」。つまり、聖餐式のことです。イエスの亡くなった前の弟子たちへの最後の命じたことが、聖餐式を行うことだったとよく考えたら良いと思います。

その命令の文脈を考えたら、価値があります。イエスとその弟子たちの最後の晩食は、普通の食事ではありませんでした。過越の祭りの文脈で、儀式的な食事でした。その儀式を完全するため、羊の犠牲が必要でしたが、イエスは羊をささげなくて、自分を神の子羊として、十字架の上にささげました。そして、弟子たちが常にその生贄に携われるため、自分の体をパンの形で教会に与えました。祈祷書に書かれている通り、私たちは、罪人の人間として、神様に捧げるものを持っていません。だから、パンを通じて、主キリストなる神は、自分の体という教会を通じて、自分の体を父なる神に永遠に捧げます。歴史的に、イエスの生贄は一度しか捧げませんでしたが、彼が再び来られるまで、聖餐式を通じて、私たちはその生贄に携われます。この通り、神と一つになれるようになります。

人間のみの道かどうか、面白い質問だと思います。だって、聖餐式に携わるものは、パンと葡萄酒をいただくもののみならず、パンと葡萄酒を作った人も、また小麦粉や、葡萄や、油や、塩とかも含めているでしょう。その全ての材料は、神から出たものではありませんか?そして、そのものを植えるため、神様が整えた太陽、風、雨なども必要でしょう。聖餐式の目的は、個人の信徒たちを養うことのみならず、世のすべてのものを集めて、正しい礼拝の中で神に捧げることもあります。詩篇や万物の歌を読んだら、これは驚くべきではないと思います。「天は神の栄光を語り、大空はみ手を告げる」などが書いてあるでしょう。世のすべてのものはある程度、神をほめたてます。聖フランシスコが有名に悟ったように、宇宙は神の崇拝のために作られたものです。だから、私は先、「教会の目的は礼拝だ」と言いました。全てのものが、できるだけに、神に崇拝を捧げます。教会の目的は礼拝だというのは、世界の目的は礼拝だからです。教会は、キリストの体として、この世を祝福して、完全な生贄にして、父に捧げる司祭の務めを行います。神のみ言葉なる主イエスに教えられた通り、その万物を完全する礼拝の形は、聖餐式しかないです。

でも、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないよう に自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」と書いてありませんか?私は逆に、教会の目的は儀式ばかりだと言っていますか?もちろん、そのことはないです。イエスが渡された夜、「お互いを愛しあいなさい」も命じられました。そのことも教会の目的だと間違いないです。けれども、優先されるべきなのは、私たちの働きではなくて、神様の働きです。聖餐式の中で、私たちは器しかないです。聖餐式を通じて、神の栄光が私たちとこの世の全てのものを変容してくださって、他人を助ける力を与えてくださいます。神は世界が彼と一つになって欲しくて、聖餐式をそのための器とすることを選びました。正しい礼拝を通じて、神様は私たちの全ての働きを完全してくださいます。16世紀のクランマー大主教が最初の聖公会の祈祷書を書いた時、「Lex orandi, lex credendi」という原則に従いました。というのは、「祈りことは、信じることを定義する」です。この故、教会の一番大事な仕事は、礼拝を行うことだと思います。価値観、正義、モラルなどは、神様との正しい関係を作る礼拝から由来しているから、そのことより、礼拝を優先しなければならないです。

その礼拝の細かいやり方は別件です。私の国では、19世紀に、聖公会の司祭が蝋燭、お線香、祭服、十字架を使ったわけで、国に逮捕されて投獄されたことがありますから、彼らのことを考えて、私はその伝統を守りたいですが、もしそのリチュアル的な細かい点の霊的な意味を忘れれば、意味なくなる可能性が高いです。その儀式の細かいことの霊的な意味を分かったら、深い意味がありますけれども、一番大事なことだと言えません。実際に、とてもシンプルな形の聖餐式、例えば朝7時のミサを二人だけで行っても、その礼拝は宇宙的な価値があります。そんな謙遜で、小さな集いを通じても、主イエスが世の中に降って、この世を変容してくれるからです。

年一回のみで、つまり聖金曜日と聖木曜日では、聖餐式を行うのは禁止となります。結局、断食の季節の末では、聖餐式も教会から取られています。飢えているイエス様と現在の飢えている人々のことを思い出して祈ります。しかし、イエスは人間の苦しみを感じるためのみならず、その苦しみを変容するためにも十字架に掛けられました。灰の水曜日のことを顧みて、砂漠の中のイエスは悪魔の誘惑を耐えて、石をパンにすることを断りました。イエスが与える「日ごとの糧」はこの世のパンではなく、「天から降ってきたパン」です。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と仰いました。私たちは、個人として、そのパンを正しくいただいて、その永遠の命を得ると間違いないです。でも、個人を超えて、主イエスが教会に聖体を与えた目的は結局、「地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を(神)と和解」するためです。そして、亡くなった家族や仲間を含めて、この世の全ての失ったものを取り戻して、永遠に喜べるようになります。

アーメン。

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