Fr Thomas Plant, Anglican Priest and Comparative Theologian

Month: June 2021

難民の日曜日

かつて、フランス人の哲学者サルトルは「L’infer, c’est les autres」、つまり「地獄は他人だ。」と言いました。しかし、私はそうではなく、イギリスの作家で『ナルニア国物語』の著者、C.S.Lewisが言い表す、「地獄は自分で作る牢獄であり、その鍵はドアの中にある。」という考え方のほうがずっと好きです。そうです、地獄とは自分の心を牢獄にしてしまうことにほかなりません。私たちを地獄に閉じ込めるのは神様ではなく、私たち自身なのです。そしてその一方で、私たち自身の心の中に牢獄の扉の鍵があります。その鍵は自分自身と他人との関係そのものであり、私たちの周囲にいる他人は「地獄」ではなくて、むしろ天国への鍵なのです。

主イエスのみ心

聖ヨハネの福音書に書いてある通り、主イエスが十字架につけられた時、兵士が槍でイエスの脇腹を刺しました。すぐに心臓から、血と水が流れでました。

 今、イギリスのリッチフィールド大聖堂の真中に掛けられている大きな十字架の新しいアイコンを見えば、イエスの脇腹に二つの細い線が見えます。一つは青、一つは赤で、その線はイエスから流れ出た水と血を表します。

 聖餐式の「奉献」の時、司祭が聖餐式を準備していて、葡萄酒とお水を混ぜます。それもイエスの脇から流れた血と水を記念するためです。その血と水はイエスの二つの要素、つまり、イエスの神性とイエスの人間性を表します。イエスの心は、共に神の心と人間の心なので、私たちの心と神様の心を繋げます。

 今週の金曜日は「聖心」の祭りです。「聖心」の意味は、主イエスの槍に刺された聖なる心臓のことです。カトリック教会で人気があるので、日本でも「聖心教会」「聖心女子大学」とかよく見かけられます。

 多分、カトリック教会や他のキリスト信者たちは「聖心の祭り」が聖公会にあまり関係がないと思っていますが、実は、主の聖心の崇拝の元はイギリスにあります。中世イギリスでは、キリストの傷と血の崇拝が流行っていました。宗教改革の後でも、17世紀の聖公会神学者がキリストの傷と血と聖体との関係、それを崇拝することを守りました。

 19世紀まで、王室のスチュアート家が聖心の礼拝を守っていました。18世紀のイギリスはあまり信仰深くない時代でしたが、19世紀の英国国教会では、オクスフォード大学から「カトリック復興運動」が広まるようになりました。その影響を与えられて、現在のイギリスの聖公会では、沢山の教会に聖心の像と祭壇があります。

 カトリック信者だけではなくて、いろいろの教会から多くの人々が主イエスの聖心に頼り信じるようになりました。主の心臓と、主の私たちのために流された血のことを考えると、主の溢れる愛を経験できるようになれます。主が刺された心臓の痛みを考えることは、私たちの心をやわらかくしてくれます。主の聖心を眺めれば、私たちの愛の不足を悟って、懺悔して、主に許していただくようになれます。

 今日は、十字架や聖体の前で黙想したり、救い主を見たり、刺された脇腹を想像したりして、イエス・キリストの精神から流れ出る愛と慈しみを経験しませんか?その愛が私たちの心に入って、また私たちの心からその同じ愛が、今日会う人々の心に届き、愛が溢れるように祈りましょう。

主よ、私は自分の罪深い心をあなた前に差し出します。あなたの心の愛を私にお与え下さい。わたしの心を、あなたの愛に似たものにしてください。

Judge not・人を裁くな

Jesus said to his disciples: ‘Do not judge, and you will not be judged; because the judgements you give are the judgements you will get, and the amount you measure out is the amount you will be given. Why do you observe the splinter in your brother’s eye and never notice the plank in your own? How dare you say to your brother, “Let me take the splinter out of your eye,” when all the time there is a plank in your own? Hypocrite! Take the plank out of your own eye first, and then you will see clearly enough to take the splinter out of your brother’s eye.’

Matthew 7:1-5

Out of all the four gospels, it is in Matthew’s Gospel that Jesus is presented foremost as a rabbi, a teacher of the Jewish law. Today’s passage follows a typical pattern of ancient Jewish argumentation: a heading followed by three examples.

How literally should we understand these words? In Matthew’s account of the Sermon on the Mount, Jesus tells us to tear out our eyes and cut off our hands to prevent scandal. Clearly these are hyperbole and are not meant to be taken literally.

So when Jesus says, “do not judge,” does he really mean that we should never judge anyone for anything at all? That everything is permissable? Some Christian groups do claim to understand Jesus’ words in this way, but even they will not permit certain things, and do cast judgment on those who oppose their idea of “justice.”

Rather, I think that the three sayings can be understood as follows. Christians are meant to be brothers and sisters, and should behave as such. Observing the splinter in your brother’s eye means talking about people behind their backs. Telling your brother to take the spinter out of his eye means being critical to him face-to-face. Finally, taking the plank out of your own eye means that you have to confess your own sins before you can judge other people for theirs. It is a a warning against hypocrisy.

We all pass judgment all the time. It is impossible to live without making judgments. But before we express those judgments, we need to think about them, to look within, and to make due confession of our own sins.

At the end of our lives, we will stand before one judge, our Lord Jesus Christ, and he will ask us, individually, how well we loved him in the poor, the troubled, and the vulnerable. We will be judged on our love by Love himself: but we can love only when our own hearts are healed and reconciled.

4つの福音書の中で、 イエス様がラビ(ユダヤ教の律法を教える人)として最もよく紹介されているのは、 マタイの福音書です。 今日の箇所は、 見出しの後に3つの例を挙げるという、 ラビの教えかたの伝統的な模範に従っています。 では、どのように解釈すればよいのでしょうか。 マタイの山上の説教の記録では、 イエスは罪を防ぐために、 目を引き裂き、 手を切り落とせ と言っています。 これらは明らかに誇張表現であり、 文字通りに受け取るべきものではありません。

では、イエスが「人を裁くな」と言ったとき、 それは本当に、 何があっても、 人を裁いてはいけない ということなのでしょうか? すべてが許される ということでしょうか? イエスの言葉をこのように理解している キリスト教団体もありますが、 彼らも あるものは 許さないし、 自分たちの考える「正義」に反対する人を 裁くこともあります。

この3つの例えは このように理解できるのではないでしょうか。クリスチャンは 兄弟であるべきだから、 そのように振る舞うべきである。

まず、兄弟の目の中の「おがくず」を観察することは、 人の陰口を言うことです。 それはダメです。

兄弟の目に刺さった「おがくず」を取るように言うのは、 面と向かって批判することを意味します。 それもダメです。

最後に、 「自分の目の中の板を取る」とは、 偽善に対する警告です。

人を判断しようとする時には、 まず、自分の罪をざんげこと を意味します。

私たちは皆、毎日、 判断を下しています。 判断しないで生きていくことは 無理です。 しかし、 判断する前に、 そのことについて考えて、 自分の心を見つめて、 自分の罪を きちんと ざんげする 必要があるのです。

人生の終わりに、 私たちは主イエス・キリストの前に立って、 貧しい人、 困っている人、 悩んでる人を どれだけ愛したか を個人的にに問われます。 私たちが、どのぐらい愛を与えたことによって、 愛という神の子に判断されます。 しかし、 私たちは自分の心が癒され、 和解して初めて 愛することができるのです。

主が教えられたように、 神に許せれますように 祈りましょう。

The Eyes of Christ キリストの目

マタイ619−24Homily on Matthew 6:19-24 (English follows the Japanese)

今、みんながマスクをする時代になって、前よりもお互いの目を見るようになったと思いませんか?

私は立教に来て間もない新人なので、マスクをつけてしか会ったことのない人が周りにまだたくさんいて、Zoomでマスク抜きでお会いすると、想像していた顔とは違うので、驚くことがあります。

今日の聖書の中で、イエスは3つのポイントを指摘しています。最初と最後は、私たちが最も大切にしているものと、私たちが仕えるべきものについてです。

つながりは明らかです。

私たちは、最も大切にしているものに対してしもべ、あるいは奴隷になります。お金は天国に持っていくことはできませんから、それを得ることに集中して人生を過ごすのは、時間の無駄です。

さらに悪いことに、愛や友情という目に見えない大切なものを無視することになります。お金はたやすく無くなりますが、その見えないものは永遠に続きます。

お金を失うと、あとには何も残りません。しかし、もし神への信仰を自分の宝とすれば、金持ちであろうと貧乏であろうと関係ありません。この世でも天国でも、目に見えない豊かさと溢れる愛を持つことができるからです。

イエスは、お金が悪いものと言っているのではなく、お金に執着することが悪いと言っているのです。神様と隣人への愛のために、お金を正しく使わなければなりません。

このように、最初と最後のつながりは明らかです。しかし、真ん中の「目」についての部分はどうでしょうか?

私たちは、目は映像を受け取るものだと思っていますが、主イエスは、目は伝えるものだと語っています。マスク時代こそ、そのことがよくわかるかもしれません。目はその人の性格や気分、時には秘密をも表します。優しい目、笑っている目、思いやりのある目、残酷な目、あざ笑う目などがあります。

そして、欲張りな目もあります。

池袋キャンパスの第一食堂の扉の上に書かれていることにお気づきでしょうか?”Appetitus rationi oboediant.” このラテン語の言葉は、聖書ではなく、キリスト教以前のローマの、弁護士でプラトン派哲学者キケロの言葉です。意味は、”欲望は理性に従え “ということです。基本的には、食堂のドアに「食べ過ぎないように」とジョークとして書かれていますが、この言葉には深い哲学的な意味があります。プラトンは、私たちの魂は二頭の馬を乗せた戦車のようなものだと言いました。理性は運転手です。二頭の馬とは、欲望と感情のことです。どちらかに主導権を握られてしまうと、私たちは道を踏み外してしまいます。欲望は理性に従わなければならず、その逆はありません。逆なら、困ります。”Appetitus rationi oboediant.” 今度、食堂を通りかかったら、見てみてください。

聖書の3つの部分のつながりはこの通りです。

私たちは、お金のような過ぎ去ってしまうものではなく、善、真実、綺美、永遠、だと思うものに向かって欲望を駆り立てなければなりません。私たちの目は、自分の真の欲望を伝えます。

最後に、キリストのイコンをご紹介して終わりにしたいと思います。もちろん、私たちはキリストの本当の顔を詳しく知りません。しかし、分からないことは良いことだと思います。想像することができるからです。イコンは、祈りの中から産まれた想像力の結果です。イコンを描くことは、何年もの訓練を必要とする聖職でした。作家は尊い材料を使い、特別な祈りを捧げながらイコンを描きます。最終的にイコンは、描かれている聖人の存在を感じさせることが目的です。

今、ご覧のイコンは、6世紀にモーゼが十戒を受けたシナイ山にある修道院で描かれたキリストのイコンです。このイコンを選んだ理由は、イエスの目です。どんな目に見えますか

この後、オルガンの演奏を聴いて、瞑想をしながら、キリストの目を見てみてください。どんなキリストの感情が見えますか?キリストの目は、今日、あなたに、何を伝えようとしているのでしょうか?

私たちがキリストの心を持ち、私たちの目がキリストの目に似たものとなりますように、祈りましょう。

In this age of masks, we are looking at one another’s eyes more than ever. Since I am new, there are many people whom I have met only with their masks on, and when we meet on Zoom and they take the masks off, I am sometimes surprised that their real faces are not the faces I imagined. But that’s another story.

In today’s reading, Jesus makes three points. The first and last are about what you value most and what you serve. The connection is obvious. You become a servant, or even a slave, to whatever it is you treasure most. You cannot take money with you to heaven, so if you spend your life focussed on that, you are wasting your time. Worse, you will ignore the more important things, the invisible things, like love and friendship. If you lose your money, you end up with nothing. But if you make God your treasure, then it will not matter to you whether you are rich or poor. You will have invisible riches and abundance of love in this world and in heaven. Jesus is not saying that money is bad: only that being obsessed with money is bad. You have to use your money properly, for the love of God and his creation.

So, the connection between the beginning and the end is obvious. But what about the middle, the part about the eyes? We think of eyes as things which receive images, but Jesus talks about eyes as things which transmit. Looking at people wearing masks, perhaps we can understand this better. Our eyes show our personality, our mood, sometimes even our secrets. There are kind eyes, laughing eyes, compassionate eyes; cruel eyes, mocking eyes.

Then there are the greedy eyes. I wonder whether you’ve noticed what is written above the door of the university canteen? “Appetitus rationi oboediant.” This Latin saying is not from the Bible, but from the pre-Christian Roman lawyer and Platonic philosopher, Cicero. It means, “let your desires follow your reason.” At a basic level, it is written over the door of the canteen as a joke: “don’t eat too much.” But it has a deeper philosophical meaning. Plato said that our soul is like a chariot with two horses. Reason is the driver. The two horses are our desires and our emotions. If we let one of them take control, they will drag us off the path. Our desires must follow our reason, not the opposite. “Appetitus rationi oboediant.” Look at it next time you are near the canteen.

So here is the connection between the three parts of the readings. We need to drive our desire towards the things we know are good, and true, and eternal, not towards things like money, which will pass away; and our eyes show our true desires.

I would like to end by showing you an icon of the face of Christ. Of course, we do not know what Christ really looked like. But it is good that we do not know, because it lets us imagine. Icons are works of the imagination in prayer. Drawing icons is a vocation which takes years of training. The artist uses expensive ingredients and says special prayers while making the icon. In the end, the icon is supposed to give you a sense of the presence of the saint it depicts.

This is a 6th century icon of Christ from a monastery on Mount Sinai, where Moses received the ten commandments. I chose it because of Jesus’ eyes. I wonder what kind of eyes you see when you look at them? As the organ plays, and you meditate, look at the eyes of Christ. What emotion do you see in them? What are the eyes of Christ trying to tell you, individually, today? Let us pray that we may have the mind of Christ, and that our eyes may come to resemble the eyes of Christ.

悪霊は黙る

今日の福音に出るイエスは日曜学校の絵本の中に描かけるイエスではなく、呪術使いの様に見えるようです。悪霊を追い出していました。イエスの自分の家族は彼が「気が変になっている」と言って、イエスを取り押さえようとしました。現在社会において、私が「悪霊」が存在すると言ったら、皆様は私が「気が変になってる」と思うかも知れないけど、確かに、争いの霊、分裂の霊、憎みの霊は、まだ力強さを保っています。私たちの中にある、「その人は私より金持ち・綺麗・勉強上手」、比較の声も「悪霊」の声と言えないでしょうか?また「私の物や家族や国は、他の人のより大事だ」と言う声は、私たちから、他人、隣人、敵への愛を忘れさせる危険があります。自分の家族、国などを大事にすることは良いことですが、それを大事にし過ぎれば、最悪の場合、差別と争いの状態を作り出します。

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