What hath Confucius to do with Lambeth?

Homily for Sun 14 August 2022

“Do you think that I have come to bring peace on earth? No, I tell you, but rather division,” says the Lord (Lk 12:51).  But wait – isn’t Jesus supposed to be the Prince of Peace? Doesn’t he spend most of his final sermon in S John’s Gospel talking about unity: his unity with the father, and how we are all meant to in unity with one another, ut unum sint?

“From now on, a household of five will be divided,” says the Lord. Can this be the same Jesus who said, “I have not come to abolish the law and the prophets; I have come not to abolish them but to fulfil them?” That not a “jot or tittle” would “pass from the law until all is accomplished?” (Mt 5.17-18.) How can Jesus set “son against father” and “daughter against mother,” when the Ten Commandments include “honour your father and your mother?” When He was Himself “obedient” to Mary and Joseph (Lk 2.51)? 

It’s as though we have two different Jesuses. One is the loyal son of a Jewish mother who raised Him in the faith and who sees the natural family structure as being in harmony with the divine law. The other is a revolutionary who wants to overthrow the most basic social bonds. One Jesus calls for unity, the other calls for conflict. 

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「自分を捨て」とは、日本人に良い意味がありますか?

(Can “renounce yourself” have a positive meaning for Japanese people? English translation follows) イエス は 皆 に 言われた。「私 について 来たい 者 は、自分 を 捨て、日々、自分 の 十字架 を 背負って、私 に 従いなさい。 ルカによる福音書19章23節 「自分を捨てて」というイエスの命令を解釈すると、大変気をつけなければならないと思います。 外国人の立場から見れば、日本人は「自分を捨てる」ことは上手ですが、多分上手すぎるかもしれません。 会社のために「自分を捨てる」日本人のサラリマンは世界中で有名ですね。 しかし、それより文字通りの例えもたくさんあります。 第二次世界大戦時代の「神風」という、政府のために「自分の命を捨てた」若者、また現在では、大変残念ですが、ほぼ毎日、線路で「自分の命を捨てる」人がいます。 たぶん私たちは、「自分の命を捨てた」人をだれか知っているでしょう。 ですから、特に日本で、イエスのこの命令を注意して解釈しなければなりません。 意味を分かるため、文脈を考えたらいいです。 その文脈はそもそも、お祈りです。 祈っておられたとき、イエスが弟子たちに質問されました。 「私は何者だと言うのか?」 私たちもその質問を考えたらいいと思います。 私たちは、イエスが何者だと言いますか? 預言者や、宗教の創立者や、素晴らしいユダヤ律法学者だと答える人がいますが、実際に受肉された神の子ではなかったら、主イエスの「自分の十字架を背負って」という命令は悪い意味しかありません。 すなわち、イエスは普通の人間だったら、「十字架を背負う」ということは、死を意味します。 それは弟子たちに良い知らせではなく、大変悪い知らせでしょう。 しかし、主が世の中に宿ってきた目的は、私たちが死ぬためではなくて、豊かに命を受けるためだと言われました。 確かに、聖ペトロを含めて、使徒たちが文字通りに自分の十字架を背負って、死刑にされたことは間違いありませんが、イエスの中で永遠の命をすでに見つけたので、彼を愛していたので、信仰を捨てることより、亡くなることを選択しました。 現在でも、その選択に直面しているクリスチャンもいますが、日本に住んでいる私たちには、その危険に直面することはほぼないです。 むしろ、私たちにとって、イエスの命令は霊的な意味を持っています。 「自分を捨てる」ということは、「自分を憎む」ことではありません。 使徒たちは自分のことを憎まず、喜びに満ちていた人々でした。 ところが、信仰深く、勇気を持つ人々で、社会の意見に目を向けないで、イエスが復活したメシヤだと信じて、全てを失う危険に直面しても、福音を宣言することを恐れませんでした。 その勇気はどこから来たと言うと、先の祈りの話に戻ります。 … Read more「自分を捨て」とは、日本人に良い意味がありますか?

What is God?

The question is not idle. The structures of Western modernity have been built on one, in my view untenable, answer to it. Insofar as modern Western technology and political assumptions have been exported around the world, it is a question which affects both the history and future direction of the whole world. It has, very … Read moreWhat is God?

ミサ、天国のキス

ドストエフスキーの諸説の中の一番有名な物語は多分、『カラマーゾフの兄弟』からの『大審問官の物語』です。キリストは再び戻って、スペインのセビル市に現れます。ある亡くなった女の子を復活しますと、審問官に逮捕されます。石がパンになるように命じる力を持っていたのに、霊的なパンしか、飢えている人に何も与えたしかないかどで訴えられます。教会は、政治的な力を取って、キリストが失敗したことを正しました。キリストが再び戻ったことは教会に邪魔です、と審問官が言います。だから、キリストは再び死ななければならない、と決断します。